THE NIIGATA BANDAIJIMA ART MUSEUM

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THE NIIGATA BANDAIJIMA ART MUSEUM

マーリア・ヴィルカラさんが語る「母、アーティスト、ルート・ブリュック」

10月10日より新潟県立万代島美術館でスタートする「ルート・ブリュック 蝶の軌跡」展。昨年東京で開幕してから、各地でたくさんのお客様にご来場いただいた展覧会もいよいよ最終会場となります。これでブリュックも見納め。というわけで、最後だからこそ、よりマニアックな視点でブリュックに迫り、より深く楽しんでいただこう!と、展覧会公式ウェブサイトでは、「もっと、ブリュック・マニアック!」企画として、グッと踏み込んだコンテンツをお届けします。

今回は、昨年4月、「ルート・ブリュック 蝶の軌跡」展の開幕を記念して行われたスペシャルトークショーより、マーリア・ヴィルカラさんによる講演部分(一部改訂)を公開します。ルート・ブリュックの長女であり、現代アーティストであるマーリアさんが語る、ブリュックの素顔や、家族の話。ブリュックの作品世界をより深く楽しむためのエピソードが盛り沢山です。

写真提供:マーリア・ヴィルカラ

「母、アーティスト、ルート・ブリュック」
語り:マーリア・ヴィルカラ

私は、マーリア・ヴィルカラ。アーティストとして、場と瞬間を創っています。

まず、手短に自己紹介をします。

私が、日本で初めて作品を制作したのは2003年の越後妻有アートトリエンナーレです。蓬原集落で、「全ての場所が世界の真ん中(Every place is the heart of the world)」という作品を発表しました。集落一帯の民家に、衛星受信アンテナの「笠」を取り付けました。以来、私と日本との結びつきはとても強いものとなりました。

Photo: Maaria Wirkkala

Photo: Art Front Gallery

Photo: Art Front Gallery

Photo: Art Front Gallery

2009年の水と土の芸術祭では、作品「INTERVALS」を発表しました。その地域に多数あった水路が近代化によって道路に取って代わられた、という話を聞いて、私は、交通手段が船から自動車に変わっていく様子をイメージしました。かつて、人と自然との関係は、より密接でより直接的なものでしたが、今や、車の窓を介するほかありません。私は、栗ノ木旧排水機場の遺構に、たくさんの車の窓を集めて川を作りました。

Photo: Art Front Gallery

Photo: Tinni

Photo: Tinni

このように創作活動を通じて新潟との縁がある私は、母ルート・ブリュックの展覧会を、新潟の皆さんと一緒に見るために来日するのを楽しみにしていました。しかしこの状況下で、来日は叶いませんでした。

その代わり、展覧会の会場に展示されている私の作品「心のモザイク —ルート・ブリュック、旅のかけら」を通じて、皆さんとご一緒できればと思っています。

 

私の母

ルート・ブリュックは日本を訪れることはありませんでした。
この写真は、私が撮影した、ルート・ブリュックの最期の写真です。山々に向かって踊る、母の姿です。

Photo: Maaria Wirkkala

 

絵葉書

ルート・ブリュックの話をする前に、その両親のこと、つまり私の祖父母の話をしましょう。

時は、1900年代初めにさかのぼります。

私の祖父であるオーストリア人のフェリクス・ブリュックと、私の祖母であるフィンランド人のアイノ・マキネンは、たまたま訪れていたイタリアのフィレンツェで出会い、そして恋に落ちました。1904年3月5日のことでした。

それは今でいう、長距離恋愛でした。

フェリクスとアイノは絵画のポストカードを送りあって、物理的な距離を縮めようとしました。そして、そのやり取りはごく自然に、まるで一族の習わしのように、ふたりの次の世代、さらにその次の世代へと受け継がれていきました。

左は1906年に祖父が祖母に送った絵葉書。右は母ルートが私に送った絵葉書。

左は祖父母が送りあったもの、右はその100年後に、私が娘のティンニに送ったものです。

この絵葉書を通じて、ルートは美術史を学びはじめました。それは私や娘のティンニも同じ。

ただ、三世代のあいだで違いがあるとすれば、ルートはここに印刷されている絵画の色彩を想像しなければならなかった。なぜなら当時の絵葉書はモノクロだったからです。

 

ルートとタピオ

ルート・ブリュックを語る上で、夫でありデザイナーのタピオ・ヴィルカラ(1915-1985)の話をしないわけにはいきません。

Photo: Maaria Wirkkala

タピオは、ルートの第一の理解者であり、作品にも並ならぬ尊敬の念を抱いていました。

タピオとルートは、まったく異なるアーティストでした。それぞれ異なるアプローチで、独立したキャリアを築いていきました。それでいながら、お互いがインスピレーションとなって影響を与えあいました。お互いに最良の批評家でもあったのです。

ふたりに共通しているのは、美術史に対する造詣が深く、好奇心旺盛で、さまざまな美術、文化、生活に興味を持ち続けていた、ということです。

一方で、ふたりはまったく違う性格、違う個性の持ち主でした。

ルートはいつも遅刻する人で、タピオはいつでも時間厳守。
タピオはとても論理的で実用的な考えの持ち主でしたが、ルートはまったくそうではありません。

ルートの作風は、具象から抽象へ、色彩の世界からモノトーンの世界へと移り、そして最終的に、光と影だけが重要になりました。

一方タピオは、幾何学とムーブメント、この両方から等しく影響を受けました。物事の変容ということに興味を持っていたのです。

 

家族

ふたりの華々しいキャリアや膨大な作品を目の当たりにすると、「家族」というイメージがわかないかもしれませんね。けれど私は、両親が不在で寂しかった覚えはなく、ふたりがいつでも一緒にいてくれたことしか覚えていません。

ルートにとって、家族はとても重要な存在でした。とはいえ彼女は常に仕事をしていたんです。それはまさに、家庭と仕事が融合したような生活でした。

兄サミと私は子どもの頃、しばしば母の仕事場であるアラビア製陶所に行き、ルートが仕事をしている間、粘土で自分の作品を作ったり、絵を描いていました。

家では、ルートが机で壁紙のデザインをしている時、その紙の反対端で私も壁紙をデザインしていたものです。私が5歳の時に描いたその壁紙は、現在も製造されています。

ルートは、私の友達の母親とはずいぶん違ったけれど、ユーモアのセンスがあふれ、笑いに絶えない家庭でした。

私たちは何時間でも一緒に笑っていました。母はいつも素晴らしいお話を聞かせてくれました。匂いや、音や、色の描写も鮮明で、きっと彼女はよい書き手にもなったことでしょう。

Photo: Tapio Wirkkala

ルートは、作品の中でも自らのストーリーを語っていきました。最初は陶器に絵付けを施していましたが、やがて技法が変わっても、さまざまな形、色、模様を使って物語を紡いでいったのです。

 

ラップランドとヴェネチア

私たち家族は生活を共にし、大切な瞬間、風景、場所をできる限り共有しました。

それはルートにとってとても重要なことでした。特にイタリアのフィレンツェとヴェネチアは大切な場所。タピオはヴェネチアのガラス工房(ヴェニー二)と仕事をしていたので、私たちも一緒に行って滞在しました。そこでの滞在は、ルートに多大なインスピレーションを与えました。

Photo: Tapio Wirkkala

Photo: Maaria Wirkkala

この二枚の写真は私たち三世代が、同じヴェネチアの風景を共有している場面です。
1953年に撮影されたこの写真には兄サミと母。一方、右側の写真は2001年に撮ったもので、娘のティンニが50年前と同じ部屋の窓から同じ風景を眺めているところです。

Photo(Left): Tapio Wirkkala / Photo(Right): Maaria Wirkkala

ヴェネチアに滞在した後には、私たち一家は渡り鳥のようにフィンランド最北のラップランドへと移動し、そこにあるサマーハウスで夏を過ごしました。

ヴェネチアと同じように、ラップランドにも黒くて細長いボートがあって、同じように水面には光がきらめいていました。ですから私たちにとって、その景色の移り変わりは、とても自然だったのです。

Tapio in a boat Photo: Maaria Wirkkala

両親はサマーハウスで、誰にも邪魔されることなく仕事に没頭し、とてもシンプルな生活を送りました。そこは電気もガスも、舗装された道路すらありません。そんな場所で私たちは時を過ごし、自然を眺め、考え、静寂に浸るのです。そうするうちに、さまざまなアイデアが生まれていきました。

Photo: Maaria Wirkkala

実はルートは、摩天楼が大好きな、とても都会的な人でした。しかしラップランドでの時間も楽しんでいました。彼女はサマーハウスでたくさんのテキスタイルをデザインしました。

ルートは、普段は、たやすく道に迷ってしまうような人でした。しかし作品制作においては、建築的な感性で物事の構造をとても正確にとらえて、小さな作品から大きなモニュメントまで緻密な仕事を成し遂げました。そこには一切の妥協もありませんでした。

ルートは、繊細さと力強さを兼ね備えていました。自ら作品について説明することはなく、感傷に浸ることもありませんでした。

最期の作品「流氷」は、フィンランド大統領の私邸のために作ったものです。約36㎡あるこの作品は、フィンランド最北の湖とそこに流れる川をイメージしていました。その湖は、ルートとタピオがラップランドからヘルシンキに戻る前に、必ず立ち寄った場所です。1985年にタピオが亡くなってからも、ルートは同じ風景がまだそこに存在していることを確認するために、毎年のように訪れました。

 

心のモザイク

日本で行われている「ルート・ブリュック 蝶の軌跡」展では、私の作品「心のモザイク —ルート・ブリュック、旅のかけら」が展示されています。

もともと「心のモザイク」は、2016年にフィンランドで行われた、母の生誕100周年記念の展覧会のために制作したものです。母が遺したたくさんのセラミックのタイルを使って、長さ24メートル、幅1.2メートルの作品を作りました。ルートが生涯を通じて探究した素材の可能性をテーマにしており、いわば、「言葉のない履歴書」でした。

Photo: Timo Torikka

今回、日本での展覧会のためにそれをアレンジし、日本の伝統的な茶箱の上に制作したのが、「心のモザイク —ルート・ブリュック、旅のかけら」です。こちらは5メートルほどの長さで、ある意味、私からルートに向けた「詩」のような作品となっています。

展覧会の会場には、母ルートが私のために作ってくれた小さな作品があります。「忘れな草」という題名は、ふたつの意味を持っています。ひとつは「小さな花」、そしてもうひとつは「ずっと思っています」。

私の話はこれでおしまいです。ご清聴ありがとうございました。

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