MUSEUM OF MODERN CERAMIC ART, GIFU

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MUSEUM OF MODERN CERAMIC ART, GIFU

THE NIIGATA BANDAIJIMA ART MUSEUM

多治見・丸朝製陶所「世界一のカップメーカーになる」(一)

一章 最盛期からどん底へ。波乱の歴史

創業104年の丸朝製陶所(多治見市)は、カップ&ソーサーを中心とする洋食器専門の製陶所です。
日本有数の窯業産地である多治見で、ルート・ブリュック展を開催するにあたり、展覧会の特別グッズ「ヘキサゴンタイル」を丸朝製陶所に作っていただきました。
グッズを作っていただくなかで、「そもそもブリュックも在籍していた“製陶所”ってどんなところ?」と興味津々!というわけで、4代目社長の松原圭士郎さんにインタビュー。製陶所を見学しつつ、波乱万丈の歴史についても伺いました。全3回。

Text Reiko Imamura / Photo Rui Mori

松原圭士郎さん。丸朝製陶所 4代目社長、グローバルカップディレクター

輸出用洋食器の産地

——丸朝製陶所の創業は1916年(大正5年)。ルート・ブリュックが生まれた年と同じです。

僕の曾祖父さんの松原朝一さんという人が、滝呂町というところに窯を建てて創業したのがはじまり。
取っ手をつけている写真が残っていて、その頃からカップを作っていたようです。

日本で初めて喫茶店ができたのは明治時代です。
大正時代から少しずつコーヒーが飲まれるようになり、コーヒーカップの存在は認知されていたと思います。
ですが、工場で作ったものの大半は北米向けに輸出されていました。

もともと滝呂には、750年くらい前から「滝呂焼」という窯業の文化があって、「山茶碗」と呼ばれる陶器を作っていました。

その後、九州の有田で磁器がはじまり、それを日本に広めようとした時、滝呂には良質のカオリン(磁器を白くするために必要な鉱物)がとれることと、この地域の人たちの手が器用だということで、カップ&ソーサーが作られるようになったと聞いています。

カップは取っ手をつけるのが大変で、生産性も悪く、誰もやりたがらないんですよ。日本でカップを作っている町はここだけですね。全盛期は大小合わせて60軒くらい工場がありました。

こんな小さな町なのに駅がある。輸出のためにわざわざ線路を引くくらい、生産量が多く、流通があったんです。

多治見市近郊の鉱山。磁器の材料となる珪石や蛙目粘土がとれる(写真提供:丸朝製陶所)

磁器の材料となる、長石、カオリン、珪石、蛙目粘土

丸朝製陶所の倉庫。素地となる土を保管している。目的に応じて成分が異なる

カップを成形するためのコテ

薄いカップは焼成時に変形しないよう、伏せて作られる

カップは「ふせ焼き」で作られる。薄いカップでは焼成時に自重で変形してしまうため、トチという道具に伏せて焼くことで、カップの真円を保つ

——それはアメリカン航空のためのカップ&ソーサーですね!

柔らかい色味の白磁がきれいでしょう、大和白磁といって今ではとれない国産原料を使っていました。裏面のスタンプもひとつひとつ手で押していました。

アメリカン航空のための航空食器。ソーサーの背面に、JAPANのスタンプが

これは機内用の食器で、1973年から78年頃まで、ものすごい量を作っていました。高度経済成長、アメリカも右肩上がりで路線も飛行機も増えて、1年中これを作っていたそうです。

当時、日本は食器製造を量産する先駆けだったんです。
なかでも滝呂はいち早く、手ロクロから成形機(ローラーマシン)に移行し、量産の自動化システムを作りました。おそらく完全に量産化したのは30、40年くらい前ですかね。

ところが1985年のプラザ合意以降、国内の成長が鈍化して、中国に工場を建てて生産を移していきます。
中国へノウハウが流出し、安い中国製が国内に入ってくる。
それで国内の産地が一気に落ち込んでいきました。

——当然、丸朝製陶所にも影響が。

一番大変だったのが20年くらい前ですね。
僕は大学を卒業して、家業を継ぐことを前提に、別のメーカーで修行していたんです。

予定よりずいぶん早く、急に「帰ってこい」と言われて。
なぜかと思ったら、受注がどんどん減って急速に下降していた。

四期連続赤字で、もう会社をたたむしかないと。
滝呂でもすでに廃業している工場はたくさんあって、状況はどんどん悪くなっていました。
そういうなかで、家業を継いだんです。

(続く)

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