ももぐさ、ブリュック語り 1「 陶壁」
多治見で「ギャルリ百草」を営む廊主、陶作家の安藤雅信さんが、地元である多治見について、またブリュックの作品についての印象を徒然に語ります。ギャルリ百草のイメージとともに。全7回。
Photo Rui Mori
陶壁
僕らの学生時代の現代美術って、「コンセプトがないと作品を作っちゃだめだ」と言われた時代で。頭で考えて、コンセプトを作って、ようやく作品を作れる、みたいな流れが苦しくて苦しくて。
とうとう31歳の時に行き詰まって、「もう無理」と思ってインドに行っちゃった。そこでチベット仏教に出会い、簡単な修行だけさせてもらったんです。
観想法という瞑想をしながら、自分がどうして行き詰まったかを考えました。悪因悪果で、まだ若かったから、周囲のことや流行も気になるし、どうしたら認められるか、有名になれるか、そういう欲があった。善因善果になるよう動機を検証して、日本に帰ったら、来る仕事はすべて受けることにしました。それで自分を試そうと思ったんです。
最初の方に来た仕事が、陶壁の仕事でした。デザイナーが言った通りに作る、いわゆる下請けです。釉薬屋さんに行って、指定通りの色釉をもらってきて。でも、ペンキを塗ったような感じで深みがなくおもしろくない。火を使う焼物ってもっと奥が深いものだし、いろいろできるんじゃないかと思って。
ちょうど出版されたイギリスの釉薬本を見つけて、それをもとに自分で研究しはじめました。白だけで100種類、緑も50種類、鉱物を利用してたくさん色見本を作って、デザイナーに提案したんです。その時、デザイナーが選んでくれた白が、その後、食器を作るようになった僕の基本の白になりました。縁とは不思議な物です。
それまで八木一夫という作家の影響を受けて、彫刻的な陶芸をやっていたから、釉薬を使うことには抵抗がありました。釉薬を使うと「形が甘くなる」という風潮があったんです。でも陶壁をやって、釉薬に目覚めたし、釉薬を掛けても形はごまかせないことが分かった。それで顔料と鉱物があればどんな色でも出せると、おもしろくなってテストしまくったんです。
ルート・ブリュックも焼物の外から入ってきて、陶壁と釉薬に入っていった人。だから、すごく親近感を覚えます。
僕自身はそれで、「陶壁の仕事で食べていける」と思っていたんだけれど、バブルが弾けて仕事がなくなり、そこから食器に移っていきました。