THE NIIGATA BANDAIJIMA ART MUSEUM

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「多治見で、ブリュック語り」(2)大きな変化のなか、美術や工芸はどうなるか

「多治見で、ブリュック語り」
安藤雅信 × 山口敦子 × 新町ビル トークレポート

8日、多治見・新町ビルで行われたドキュメンタリー映像の上映会&アフタートーク。ゲストに、多治見で「ギャルリ百草」を営む陶作家、安藤雅信さんを迎え、展覧会のこと、ブリュックのことについてたっぷり語りました。3回に分けて、トークのダイジェストをお届けします。

(1)あんなに変わってゆく陶の作家はいない
(2)大きな変化のなか、美術や工芸はどうなるか
(3)やきものの知恵と経験が総結集した展覧会

(2)大きな変化のなか、美術や工芸はどうなるか

花山和也(新町ビル ファウンダー/2F「山の花」オーナー)
1950年代終わりから、世界的に美術も音楽も、抽象化ミニマル化の道を進み、ブリュックも自然な流れで抽象化に向かっていくという話でした。

安藤雅信(ギャルリ百草 廊主、陶作家)
抽象化という潮流も当時はあったし、第二次世界大戦でフィンランドは敗戦して、何もないところから立て直しをはじめるわけですよね。日本の侘び寂びの歴史も、応仁の乱の後、ほとんど何もなくなった京都で「ここで何かできないか」とはじまった。民藝運動も関東大震災の後。大きな出来事があった後、過去を振り返りつつも前向きになろうとして、そこから大きな変化が生まれていくのだと思います。

花山
今まさに、世界中で近しい変化が起きている時です。

安藤
コロナ禍はまだ終わってないから、何も言えないんだけれど。これから、商売のあり方、組織のあり方、何から何まで変化していきますよね。変化、あるいは淘汰という言い方かもしれませんが。

ギャルリ百草の「石の回廊」

花山
去年、新町ビルがオープンした時に安藤さんをお招きし、トークをしていただいた。その時、「まだ作っていないものがたくさんある、これからは美術に向かっていきたい」と話しておられました。そんな安藤さんは今年、コロナで自粛休業している間に、山に石を積んで回廊を作っていたそうですね。

安藤
ギャルリ百草をはじめたのが1998年。山を切り拓いて、土で埋め立てて、建物を移築して作りました。開廊以来、外構工事に手を加え続け、今年も造園屋さんに新しい小道を作ってもらった。その工事で余った石をもらって自分で積みはじめたんです。

20年以上経って山道も土が流れて狭くなってきたので、土留めとして積んだのね。そしたら、すっかり面白くなっちゃって(笑)。機能優先で積んでいるつもりだったのが、これって、環境芸術というか、作品になってるんじゃないかって、思いはじめたんです。

ギャルリ百草 Photo:Rui Mori

もともとここでギャラリーをはじめたのは、東美濃地方に作家が多かったし、この地方の文化の底上げが目的でした。だから全国区の作家たちに声をかけ、日本人にとっての美術とは何かを考えながら、古民家という場での企画展に力を入れてきました。純粋なギャラリーとして、企画の内容と展示方法という中身で勝負してきたつもりだった。

そしたらある時、村上隆さんが「百草はそれ自体が安藤さんの作品だよ」と言ったんです。目から鱗が落ちましたね。

コロナ禍にインスタグラムで、石を積み上げているようすをアップしていたら、何度も村上隆さんが「天才」って書き込むんですよ。どういう意味でそう言ってくるのか分からないけど、百草というひとつの作品として新しい展開になる、ということを彼は思ったかもしれません。

(写真:安藤さんのインスタグラム(@masanobu.ando)で紹介している石の回廊)

実際は、コロナ禍で個展が延期になったりして時間ができたので、営業的なことはそこそこにして、ただただ石積みが楽しくなっちゃって。20年以上も手つかずで、鬱蒼としていた森を明るくして歩いてもらえたら、この土地と場所全体を楽しんでもらえるんじゃないか、という純粋な気持ちでやっただけ。

仲間内からは、現代美術への憧憬を捨てない僕を見て、「安藤は美術コンプレックスが強い」と批判されていて。まあ、それは認めますし、乗り越えていかないといけない。日本人にとって「美術とは何か」というのは永遠のテーマだと思うし、工芸におさまりたくない自分が常にいるんです。

環境造形なんてとても言えないけれども、百草の建物、庭、山を作品にしていく、というのは、僕が遠回りした末にようやくたどり着いた、ひとつの答えなのかもしれない。

この展覧会でも、ブリュックに対して「陶芸家」という言葉を使って欲しくない、という要望があったとか。彼女の作風の変化を見ると、その意味が分かるし、近しい気持ちを感じました。

日本の工芸は大丈夫か

花山
楽しそうですよね。そういえば、ブリュックも楽しそうですよね。

安藤
少なくとも営業的なことは考えていないよね(笑)。

山口敦子(岐阜県現代陶芸美術館 学芸員)
当時はフィンランドの国家も、アラビア製陶所も、作家が制作に打ち込める環境を提供していました。とても恵まれていたと思います。

安藤
でも今はもうないんですよね。

山口
はい。アラビア製陶所は会社も工場もなく、現在はフィスカースというグループ企業の中にアラビアというブランドだけが残されて。製造は他の国で行っています。

安藤
今や、世界的にも工芸は瀕死状態なんですよ。アートと工芸の中間の、いいものを作ってきた陶磁器メーカーがどんどんなくなっている。

山口
「フィンランド陶芸展」で一緒に仕事をしたハッリ・カルハという美術史家が、「フィンランドでは陶磁器の作家やメーカーが生きていくことは難しい。日本では陶磁器は自国の文化としてとらえられているから、フィンランドとは全く土壌が異なる」と語っていたのが印象的でした。

安藤
ヨーロッパでは、まず美術、特に絵画と彫刻、次に建築で、その下が工業デザイン。さらに下のその他もろもろが工芸。でも日本では工芸だけで食べている人が多くいるように、各家庭で花を生けたり、料理を盛り付ける伝統と文化があるから大丈夫だとは思うけれど、人口減で需要も減っているから、拡大するにはそれなりの努力が必要になるでしょうね。

これからは、生活工芸の人口は増える

花山
作り手も減っているのでしょうか。

安藤
昨年、武蔵野美術大学で講演会をした時に、大学院生がほぼ外国人で中国の人が多かったですね。中国には工芸という概念や工芸のギャラリーがなく、日本で手に職をつけたい人が増えているみたい。

国内では、ポストコロナのことはわからないけれど、東京から地方に移住する人、生活を自らの手で作っていきたいという人など、ちらほら聞くので、生活と密着した工芸(生活工芸)を目指す人はこれから増えるだろうな、という予感はしています。

東北大震災後もそうだったように、コロナをきっかけに自分たちにとって何が本当に大切なのかを考えて、「日本もなんとかしなきゃ」という人は増えるでしょうね。東京や都心で生活することの危うさを踏まえて、地方の中で循環する商業のサイクルができていくと思いますよ。

この100年、美術を意識した工芸が続いてきたけれど、それが終わり、「自分たちにとって本当に必要なもの」という視点がより強くなっていくと思います。

3に続きます

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