ももぐさ、ブリュック語り 5「美濃」
多治見で「ギャルリ百草」を営む廊主、陶作家の安藤雅信さんが、地元である多治見について、またブリュックの作品についての印象を徒然に語ります。ギャルリ百草の写真とともに。全7回。
Photo Rui Mori
美濃
多治見を含む東濃地方は弥生の土器も出土するし、それなりに古い町なんだけれど、やきものとしてある程度の量を作りはじめるのは平安末期からです。「行基焼」、通称「山茶碗」という、中国の金属器のうつしである白瓷焼の普及版のようなやきものを作っていました。あちこちに窯跡があって量産していたようなので、その頃から産地になる要素は持っていったと言えると思う。
しかし、何と言っても表は瀬戸。日本で最初に釉掛けされたやきものを作った所だし、美濃は瀬戸の二番煎じ的存在。茶の湯の流行と共に瀬戸が最初に唐物写しの天目茶碗を作って京都で売っていたんだけれど、応仁の乱後、京都で売れなくなって、陶工たちが美濃に流れてきた。その後、秀吉の時代になって、利休のお茶のスタイルがガラッと変わり、それまで唐物づくしだったのが、一気に国産になります。
「国焼」と呼ばれる日本オリジナルのやきもの、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部、それらすべてを作っていたのは、実は美濃でした。それを指導していたのが、利休とその弟子である古田織部です。ただ、残念なことに、ここで作ったものはすべて瀬戸から世に出ていったからか、名称に瀬戸が含まれ、美濃の名が知られることはありませんでした。
江戸時代になって、古田織部は徳川家の逆鱗に触れて自刃し、それに替わって茶の世界を引っ張っていった小堀遠州は、好みから瀬戸も美濃も外しました。それで茶道具の産地としてその後は栄えることができず、安い量産の雑器を作っていくしかありませんでした。そして流行は17世紀から磁器へ移っていきます。
1800年代に入って、「産地として生き残るためには磁器を作らなければならない」と、瀬戸の陶工が有田から技術を覚えて帰ってくる。瀬戸には有田の陶石のような磁器の原料はないけれど、蛙目やカオリンなどいくつかの原料を混ぜて、磁器と称して作りはじめた。その数十年後、それが美濃にも伝わり、磁器を作るようになります。
多治見に「西浦焼」というのがあります。それを扱っていた西浦さんという商家が大阪の取引所に「美濃という名前を使わせてくれ」と直訴して、1800年半ばくらいにようやく美濃という言葉を使えることになりました。だから、歴史は長いのに、美濃焼という言葉を使いはじめてからまだ150年くらいなんです。明治時代になるとドイツから工業技術を導入。殖産興業として磁器を生産するようになった。
1931年、美濃の陶芸家である荒川豊蔵と魯山人が名古屋の関戸家で志野茶碗を見せてもらいました。その土を見て、「古志野は瀬戸で焼かれていた」という通説に疑問を感じた荒川は、多治見から山を越えた可児市で古い窯を調べます。すると前日名古屋で見た志野と全く同じ図柄の破片を見つけ、「黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部が、すべて美濃で焼かれていた」ということを発見したのです。
工業化一筋だった美濃で一大陶芸ブームが起き、全国からたくさんの人たちが集まってくるようになりました。
茶陶で人気のある「備前焼」や「唐津焼」はやきものとしてのきまりがあるというか、出来上がったイメージがあり、それ以外のものはその名称を使えないと思います。しかし、「美濃焼の特徴を一言で」と言われたら、僕は「なんでもあり」と答えます。美濃は、歴史が物語るように様々なやきものをつくってきたし、幅が広すぎて定着したイメージもないし、作り手達にも「こうでないといけない」というこだわりがないんですね。
ある意味固定化したブランド力がないからこそ、何をやっても自由。分業化が進んでいて材料は割と手に入るし、技術的なことを知りたければいろんな人に聞ける。「・・焼」というブランドが守ってくれるわけではなく、自称作家がとても多いので地元では大事にされず、それぞれ外に出ていかないと食べていけないものだから、逆に全国区で知られる作家が多いのかもしれません。伝統工芸から、民藝、クラフト、工業製品、アートまでなんでもあって、産地としては、すごくおもしろいところだと思います。