アラビア製陶所の美術部門
メーカーがアーティストを雇う
ルート・ブリュックはフリーランスのアーティストではありません。フィンランドの名窯、アラビア製陶所内にある美術部門(アート・デパートメント)に所属し、アラビアのアーティストとしてキャリアを築きました。
アラビア製陶所は、スウェーデン・ロールストランド製陶所の子会社として、1873年にフィンランドのアラビア地区に設立されたのがはじまりです。初期は一般用の陶磁器や衛生陶器を製造し、1890年代からは英国アーツ・アンド・クラフツの芸術家を招いてオリジナルの食器をつくりはじめました。
1917年にフィンランドはロシアからの独立を果たし、自国のアイデンティティに基づいたものづくりや芸術が大流行します。アラビアもまた、「海外の真似ではなく、フィンランド独自の芸術性を打ち出していかなければならない」と、1932年に美術部門を開設します。ディレクターのクルト・エクホルム(1928‐1931)は、作家として作品を生み出しながら、新たなアーティストを美術部門に招き、育成することに力を注ぎました。
スカウトされたブリュック
ルート・ブリュックも、エクホルムにスカウトされたアーティストのひとりです。1940年はじめ、ブリュックはグラフィックデザイナーとして雑誌の表紙や版画などを制作していました。陶芸の経験はありませんでしたが、エクホルムはブリュックの才能を見抜き、その才能とセラミックを掛け合わせることで今までにない芸術を生み出そうと考えたのです。
エクホルムの狙いは見事に的中しました。ブリュックは潜在的な才能をみるみる開花させ、職人とともに新たな表現技法を生み出し、1951年のミラノ・トリエンナーレの展示でグランプリを受賞します。そこから、アラビアの美術部門は1960年代にかけて黄金期を迎えることになるのです。
アーティストの自由を守る
美術部門のアーティストはスタジオとアシスタントを与えられ、完全に自由な制作を許されていました。基本給に加えて、作品が売れるごとに歩合給を受け取ったほか(※)、さらに工場の窯や材料も自由に使うことができました。美術部門をもつ製陶所はほかにもありますが、ここまで自由度の高いところはとても珍しかったようです。
(※)ただし、ブリュックはその後、給料の受け取りを放棄し、マーケティングで彼女の名前を使用することは禁じる一方、アーティストとしての権利は保持していました。
戦中戦後には存続の危機に直面したこともありましたが、約70年の歴史を刻んだ美術部門は2003年にアラビアから独立し、「アラビア・アートデパートメント協会」という組織として新たな一歩を踏み出しました。現在は8人のアーティストが在籍し、昔と変わらず、旧アラビア製陶所の9階にあるスタジオで自由な制作が続けられています。