「多治見で、ブリュック語り」(1)あんなに変わってゆく陶の作家はいない
「多治見で、ブリュック語り」
安藤雅信 × 山口敦子 × 新町ビル トークレポート
8月、多治見・新町ビルで行われたドキュメンタリー映像の上映会&アフタートーク。ゲストに、多治見で「ギャルリ百草」を営む陶作家、安藤雅信さんを迎え、展覧会のこと、ブリュックのことについてたっぷり語りました。3回に分けて、トークのダイジェストをお届けします。
(1)あんなに変わってゆく陶の作家はいない
(2)大きな変化のなか、美術や工芸はどうなるか
(3)やきものの知恵と経験が総結集した展覧会
(1)あんなに変わってゆく陶の作家はいない
花山和也(新町ビル ファウンダー/2F「山の花」オーナー)
安藤さんは「ルート・ブリュック 蝶の軌跡」展をご覧になりましたか。
安藤雅信(ギャルリ百草 廊主、陶作家)
はい、岐阜県現代陶芸美術館に2回観に行きました。
花山
ブリュックについて、どんな印象を持っていますか。
安藤
一昨年、日本で開催された「フィンランド陶芸展」でルート・ブリュックの存在を知り、突出して光っていたんだけれど、今回「ルート・ブリュック 蝶の軌跡」展で彼女の全貌を見て、大ファンになった。それどころか、世界中でやきものをやっている作家のベストスリーに入るんじゃないか、それくらいすごい人だな、と思いましたね。
フィンランドも日本もアニミズムの国
花山
安藤さんは去年、フィンランドに行かれたそうですね。
安藤
僕以上にブリュックの影響を受けている、ミナ・ペルホネンの皆川明さんと一緒にフィンランドに行きました。そこでとにかく驚いたのは、この国にはアニミズムが宿っている、ということだったんです。
日本もアニミズムの国ですよね。「八百万の神」とは、森羅万象に神が宿っているということ。フィンランドの人もそうした感覚を持っているのではないか。だから街中の建物の柱に生き物が彫ってあったり、岩をくり抜いて作った教会があったり。架空のものが生きているような国だと思う。こういう場所だからこそ、ムーミンの物語も生まれるんだなあ、と。
花山
デザインや美術という意味でも、フィンランドと日本は近しいところもあるのでしょうか。
安藤
デザインとか美術って、もともとすべての国にあるんだけれど、フランスやイタリアの影響を強く受けるんですよね。日本では明治時代に西洋になんとか追いつけと「美術」や「洋画」という言葉も生まれた。常に西洋の文化に対するコンプレックスがあったわけです。
山口敦子(岐阜県現代陶芸美術館 学芸員)
フィンランドの場合は、外に出ていくのは日本よりも後発なので「自分たちのアイデンティティをより強く打ち出していかないと」という意思はあったと思います。日本人が持っている「コンプレックス」とは少し違ったかもしれませんね。
安藤
ブリュックは夫のタピオ・ヴィルカラと一緒に頻繁にイタリアに行っていますよね。
山口
はい。建築家のアルヴァ・アアルトとアイノ・アアルト夫妻もイタリアを訪れています。
あの時代、万国博覧会や国際的な発表の場は限られていて、フィンランド人デザイナーやアーティストにとって、イタリアは特別な場所だったと思います。デザインや工芸の中心地はイタリアでしたから。
ブリュックの作風の変化
花山
先日、僕も展覧会を観てきたんです。広い空間の力もあって、展示がめちゃくちゃカッコ良かった。ブリュックのテキスタイルも面白かったですね。
山口
巡回会場の中でも、当館(岐阜県現代陶芸美術館)は特に展示面積が広く、またブリュックの優れた色彩感覚を伝えるためにも、テキスタイルを丁寧に紹介したいと考えたんです。
花山
安藤さんは、ブリュックのテキスタイルについては?
安藤
テキスタイルは、あまり興味なくて(笑)。それよりも興味を持ったのは、やきもののほう、ブリュックの作風の変化ですね。陶というひとつの素材であれだけ変わっていく作家はほんとうに珍しい。どういう変遷でああなっていったんだろう。フィンランドという土地の力か、時代背景なのか。この話をいただいてから、ずっと考えていたんですよ。
みなさん、キャリア前期のね、色をたくさん使った作品が「具象」で、後期のタイル作品を「抽象」だととらえる人が多いと思うけど、僕はどちらも抽象だな、と思っているのね。
1940年代にアラビア製陶所に入ったばかりのブリュックは、やきものの知識も経験もなくて、職人が作った器に絵を描いていた。でも、やきもののことがだんだんわかってくるじゃないですか。それで、石膏型で同じものをたくさん作って、ひとつひとつ色や模様を変えるという方法を編み出した。
それは「具象」でも「複製」でもないんですよ。自分が作るものは絶対ではなくて、偶然に得た美しさ(抽象)というものを、作家自身が楽しんでいた節がある。例えば、後期印象派の画家が「見えないもの、変化していくものを描こう」としたのと同じですよね。
1957年の「蝶」の陶板があります。石膏型から外すと凸ができるので、そこにたくさんの釉薬で色分けをして、さまざまな色の蝶を作ることができる。でもブリュックは、あの凸をただの輪郭線として処理していない、と僕は感じました。
20世紀の抽象芸術は多くの場合、輪郭線を持たないんです。色や形は常にうつろうもの。見えるものに囚われるのではなく、見えないものを表現する。ブリュックの後期のタイル作品も輪郭線がありません。つまり前期と後期を通じて、輪郭線を意識しているようで、していなかったのではないか。
キャリア全体を通じて、部分的に色んな要素を見ていくと、すべてつながっているということがわかります。やはり変化の境界となった、1950年代の作品が面白いですよね。
音楽も美術も抽象化が進んだ時代
花山
50年代というと、どのあたりの作品になりますか。
山口
「都市」「ヘキサゴン」も、1958年頃ですね。
安藤
マイルス・デイビスというジャズミュージシャンがいました。1959年に「カインド・オブ・ブルー」というアルバムを出し、そこからジャズの抽象化が始まっていきます。それまで使用する音に縛りのある「コード」という和音で構成されていたジャズは、モードスケールのみ演奏することで縛りをなくし、自由度を獲得していったんです。
ブリュックも、まずはコーダルジャズのように自分の描きたいものを具象的な世界で展開していった。1957年に父親が亡くなって「蝶」を作った頃までに、幼少期の体験とか、家族の死とか、自分の中で描こうと思っていたものを出し尽くし、より自由な表現の世界を得るためにモードジャズのようなタイル表現に向かったのではないでしょうか。
アラビア製陶所には釉薬や石膏型など技術的に助けてくれるスタッフがいて、世の中を見渡すと音楽も美術もミニマル化、抽象化が進んでいる。僕は、そのあたりの時代がシンクロしていたような気がするんです。
(2に続きます)